まとめたノート

なんでもまとめ


今でもそうだが人付き合いの苦手なオレは、会社を辞め一人で仕事を始めた

15年前の話です。

今でもそうだが人付き合いの苦手なオレは、会社を辞め一人で仕事を始めた。
車に工具を積み、出張で電気製品の修理や取付の仕事。

当時まだ携帯電話は高価で 俺は仕事の電話をポケベルに転送し、留守電を聞いて
お客さんに連絡するという方法しか取れなかった。生活さえギリギリだった。

ある日 母親が九州の実家から関東の俺の家まで訪ねてきた。遠くから来た親を
いたわることもせず、無愛想な俺、ホントにバカだ。俺を心配し、掃除、洗濯 料理を
作り山ほど食糧を置いて母は帰郷した。バカ息子は見送りもしない。

仕事から帰宅した俺は母の手紙を見つけた。「仕事頑張って下さい、少しですがこれで
携帯電話でも買って声を聞かせて下さい。」手紙にはお金が同封されていた。
手紙を手に俺は、わあわあ泣いた。 

カメラやメールなんて出来ない。メモリーも50件しか入らない初期の電話。
でもこの電話にどれだけ助けられただろう。俺には最高の宝物。

母の日に電話を送った。ちゃんとお礼をいわなければ。
「おかあさん どうもありがとう」と。

今年の6月に母が亡くなった。火事だった。

今年の6月に母が亡くなった。火事だった。同居していた父親は外出していて、弟は無事に逃げる事が出来たのだけど、母親は煙に巻かれて既に駄目だった。
自分は違う地方に住んでいたのだが、電話で聞いた時にはどうする事もできず、ただひたすら号泣しながら高速を運転して実家に戻った。
火事でめちゃくちゃになった実家を見た時に、ああ本当に起こったんだ、と冷静に実感をした。
全焼だった焼け跡には何も残っていなかったが、アルバムやら保険の証書なんかの重要な書類は、焦げてはいたけど奇跡的に焼けずにジェラルミンのケースから出てきた。
母の遺体は警察に見せてもらえず、頬の裏側の粘膜をスプーンみたいなもので取られて、DNA検査の結果を待ってください。なんて言われた。僕は検視をした大学病院の先生に
直接電話して、「母は苦しまなかったんですか?」と聞いた。「遺族の皆さんからのそういう問い合わせはいつも本当に多いのですが、私には分からないんです。」と優しい口調で諭された。
告別式や葬式が終わって、焼け残った書類なんかを家族みんなで調べていたとき、母親が残していた書類が出てきた。小さなそれは放水車の水で濡れて、炎で焦げてはいたけどちゃんと開く事が出来た。
それは、僕たち兄弟5人の母子手帳だった。僕の手帳には、産まれる前日まできっちり状態が書き込んであり、” ちょっと出血があったので心配。先生は大丈夫だと言ってたけど”と若かかった頃の母の直筆で、
メモが残されていた。兄、2人の妹、弟の母子手帳もそれぞれいろいろな記録がしっかり書かれていた。
僕が産まれて35年間も、大事に、大切に保管をしてくれてたのだ。皮肉にも、母が亡くなって焼け跡の中で知った。
僕らは兄弟が多く、母はずっと苦労したと思う。当時は学費も生活費もかさんでお金もなかったから、よくパートに出ていた。スーパーで働いていた時は、廃棄になるおにぎりをいつも5つ持って帰ってきて
くれていて、それを笑顔でみんながほおばっていたのを今でも覚えてる。
そんな母も僕ら一人一人に分け隔てなく愛情を注いでくれていた。「あんたらが大きくなったら一人で旅行とかいろいろ行くねん!早く大きくなってや。」と小さかった兄弟にいつも笑いながら言っていた。
母は、結局一人で満足に旅行は出来なかった。母の人生は幸せだったのかな?とよく思う。
母子手帳は、兄弟一人一人の手に形見として受け取った。みんなそれぞれに心に染みるものがあったと思う。
若かった母が身体の状態を気にしていたときには産まれてすらいなかった僕は、今は小さな子供がいる。母がしてくれたように、この子にたくさんの愛情を注いで、立派な父親になりたい。
それが、母に対する、恩返しになると思う。 

母親には敵わないと思いました

抗がん剤も効果なく、
これ以上の治療は、ただ体力を削るだけだと医者から宣告されて
予後をただ穏やかに過ごすために、母は私の働く病院に入院しました。

夜勤に入る前に早めに行って、いつも通り話をしてると、
「あんたがいてくれて良かった」て急に言われた。
徐々に弱って、胸水が溜まり始めてたから
ちょ、やめて!フラグ立てないで!てちらっと思ったんだ。 
まあ、でも、またとりとめのない話を続けてる内に不安を忘れ、
いつも通り夜勤も終了。

仕事が終わった途端、急に母が苦しみだした。
職業柄、その、先が見えた。
ああ、ついにきた…。
覚悟は決めてた。いずれ、こうなることもわかってた。

「…どうにかして」
すがる様に母が私を見た。
不安にさせないように笑顔で居ることが私の役割。
いつも通り、大丈夫って擦ってあげればよかった。
でも、私は動けず、笑おうとしても引きつって、涙がこぼれた。

やばい!泣いたらだめだ!
慌てて、母から顔を逸らす。背中を向けようとしたとき、

ぐっと手首を掴まれて引き戻された。

「大丈夫、大丈夫だからね!」
目の焦点さえも私にあわせられていないのに。
手首を掴む手も
力強い声も

昔の、強いお母さんでした。

 
それ以降母は苦しいとも辛いとも言わずに
それから2時間後に亡くなりました。 

大丈夫。
それは私が言ってあげなければならない言葉だったのに。
私は看護師失格で母からキツイ苦しいの言葉を奪ってしまった。
でも最後に子供でいられた。

どんなに子供が大人になろうとも。
経験を積んで立派になろうとも。

母親には敵わないと思いました。 

母が亡くなったのは、二年前のクリスマスイヴ、私の成人式の10日前のことでした

二年前に亡くなった母のことを。
母が亡くなったのは、二年前のクリスマスイヴ、私の成人式の10日前のことでした。
普段病気ひとつしない母が、珍しく風邪で寝込んで一週間、私は、出先から帰ってきて母に
「具合はどう?病院行かないの?」
と聞くと
「ただの風邪だから大丈夫。明日一日休んだら仕事できそう。(うちは自営業)あのね、プリン食べたいから買ってきてくれない?」
「今日は疲れたからまた明日買ってくるね。」
「分かった。成人式まであと10日だね。写真いっぱい撮るね。」

それが最後の会話でした。その日の夜中母は胸部大動脈解離という病気で急死しました。
母の最後の願いも聞いてやれず、ろくな親孝行もできないままでした。
あと、三か月で学校も卒業して、少しは楽させてあげれたのに…
自分より、家族のことばっかりだったお母さん。私が、学校の課題の材料を持っていると、
「それどうしたの?」
と聞かれました。我が家は決して裕福なほうではなかったし、母は早朝から夜遅くまで働いていてこれ以上負担を増やしたくなかったので、
「買ったんだよ。私もバイトしてるし、学校行かせてもらってるんだから、教材ぐらい自分で買うよ。」
と言うと
「何言ってんの!!学校でいるものぐらい、お母さんが出してあげる。バイト代は、自分のために貯めておきなさい。」
と言われました。
いちばん近い存在で、いつも味方をしてくれていたお母さん。
お母さんが楽しみにしていた成人式、お母さんの着た振袖を着てでましたよ。見てくれていましたか??
お母さんの子どもに生まれて本当によかった。お母さんは人として、母として、私の目標です。
沢山愛してくれてありがとう。

泣ける話じゃないかもしれないですが、母の死から今年のクリスマスイヴで二年たってやっと涙を出さずに母のことを語れるようになったので、書かせていただきました。

おれ、一年くらい自衛隊にいたんだけどさ

おれ、一年くらい自衛隊にいたんだけどさ、訓練で大ケガしちゃって、かなりたいへんだったんだ
そのあとの上官からもイビリがすごくて精神的にも参っててさ

もう死ぬしかないじゃんって考えたりして。

あんまりきつかったからさ休み時間隠れてオカンの携帯にかけたんだ

普段は仕事ででれないのにその日だけはすぐでてくれて

おれ、言葉にならなくてさ泣くしかできなくて

そしたら何も言ってないのにオカンが「…帰っといで」って。



それだけの言葉におれはどんだけ救われたか…

母ちゃんのおかげで、自殺なんかしなくて今があるよ 

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